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東京地方裁判所 平成元年(合わ)54号 判決

主文

被告人を懲役二年に処する。

未決勾留日数中九〇日を右刑に算入する。

押収してある文化包丁一丁(平成元年押第五〇六号の1)を没収する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、平成元年四月三日午後七時前ころ、東京都江東区〈住所省略〉の都営住宅○○号棟四階××号室の被告人方居室において、長男であるA(当時二五歳)がいわゆる当たり屋行為をしているのではないかとの疑いを抱き、自宅の電話で交渉することに文句を言ったことから口論となり、同人から、浴室内に倒され、顔面を殴打され、胸倉をつかんで後頭部を床面に打ち付けられ、顔面に水を掛けられ、首を絞められるなどの執ような暴行を加えられたことに憤激し、同人が乱暴をやめて右居室から出ていった後、台所から刃体の長さ約一五・五センチメートルの文化包丁(平成元年押第五〇六号の1)を持ち出して右居室前廊下を同号棟△△号室前付近まで追い掛けたが、同人が同号棟○○号室前の階段を降りていったため、ひとまず安堵して自室方向に向かった。ところが、その背後から塵取りとほうきを手にして構えた同人に「来い、この野郎。」などと怒鳴られたことから、被告人は、右包丁を示して同人を脅してその場から追い払おうと考え、右手に右包丁を刃を上にして順手に持ち、これを前方に差し出しながら同人の方に小走りで向かっていったが、予期に反して同人が塵取りとほうきを置いて立ち向かってきたため、同日午後七時〇五分ころ、同棟四階○○号室前付近廊下において、右包丁の刃先を下ろし左肩から同人にぶつかっていったところ、同人に右包丁を持った右手首をつかまれ、脇の下に手を入れられて仰向けに投げ倒されたが、その際、同人に取られないように刃先を上に向けたまま強く支持していた右包丁で被告人の上に倒れ込んできた同人の心窩部を一回突き刺し、更に、同人を身体の上に乗せたまま両足で床を蹴るなどして壁際まで後退し、壁を伝って上体を起こし、左手を床につき反動をつけて立ち上がろうとして右包丁を持った右手を前方に突き出すなどした際、膝をついて前のめりの状態で被告人と向かい合っていた同人の上胸部を右包丁で一回突き刺し、同人に心窩部及び上胸部各刺創の傷害を負わせ、よって、同日午後九時一五分ころ、同都墨田区〈住所省略〉の都立墨東病院において、右上胸部刺創に起因する心臓刺創による心タンポナーデにより同人を死亡するに至らせたものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(殺人罪を認定せず傷害致死罪を認定した理由)

検察官は、被告人が被害者に対し、殺意をもって、所携の文化包丁でその胸部を二回突き刺し死亡させた旨主張するので、以下この点について判断する。

一  関係各証拠によれば、本件犯行に使用された凶器は、刃体の長さが約一五・五センチメートルの先鋭でよく研ぎ立てられた文化包丁であること、被害者の主たる受傷部位は、上胸部の、致命傷となった幅約三・三センチメートル、深さ約一二・五センチメートル、刺入口がほぼ水平で刃が右向き、創洞が前上より後下に向かい心臓に達する刺創のほか、心窩部の、幅約三センチメートル、深さ約一〇センチメートル、刺入口右上がり、創洞やや左上方に向かう刺創、上胸部の、幅一・五センチメートルの表皮同奪、幅約二センチメートルの革皮様化部等であることが認められ、右の事実によれば、身体の枢要部に二度にわたり相当強い力で鋭利な刃物が突き刺さったほか、これと相前後して軽度の攻撃が加えられたことが認められるのであり、これら事実は、犯行時における被告人の殺意を一応推認させるに足りるものである。

二  しかしながら、本件犯行の態様のほか、犯行に至る経緯等を子細に検討すると、以下に判示するとおり、本件において、被告人が殺意をもって攻撃に及んだと認定するには合理的な疑いが残るというべきである。

1  まず、本件犯行の態様について、被告人は、犯行直後の平成元年四月四日には、前記文化包丁を持って被害者に飛び付いていって刺した旨供述していたが、翌五日には、被害者の身体のどこを何回刺したか夢中であったためよく覚えていない旨供述し、同月一二日以降は、公判段階に至るまで一貫しておおむね前判示のとおり供述しており、更に、同月五日以前の犯行態様についての供述内容がいずれも極めて簡略であることに照らすと、犯行直後における被告人の右供述は、被告人の記憶に基づくというより、犯行状況に関する記憶が極めて曖昧なまま安易に捜査官の誘導に迎合したものとの疑いが強く、信用することができない。これに対し、同月一二日以降の一連の供述は、内容がほぼ一貫しているほか、比較的詳細で具体性に富み、他の証拠とも矛盾していないことに鑑みると、その信用性は高いというべきである。したがって、本件犯行態様については、右一連の供述に則り、前判示のとおり認定するのが相当である。

2  そこで、前判示の犯行態様に即しつつ検討するに、関係各証拠によれば、被告人は、前方に差し出した前記包丁の刃先を下ろして、被害者に正面から左肩でぶつかっていったが、その際、被害者は、持っていた塵取りとほうきを置いて被告人に向かい直立していたこと、当時、被告人は四八歳で身長一六〇センチメートル、体重六七キログラム、被害者は二五歳で身長一七五センチメートル、体重九一キログラムであって、被害者が被告人に体力的に明らかに勝っていたこと、その直前にも、被告人が被害者から一方的暴行を受けたことが認められる。このような場合、被告人に殺意があるのであれば、包丁の刃先を被害者に向けたまま一気に攻撃するのが自然であるのに、被告人がそうすることなく敢えて刃先を下ろし肩から被害者にぶつかっていったにすぎないということは、被告人が当時殺意を失っていたことを示す証左というべきである。

もっとも、関係各証拠によれば、被告人は、たまたま遊びに来ていた長女や知人の面前で、被害者から前判示のとおりの一方的かつ執ような暴行を受けて、親の面子を潰された思いも加わり、憤激の情押さえがたく、自暴自棄ともいうべき気持ちになっていたことが認められ、少なくとも被告人が包丁を持ち出した時点においては、未必的にせよ殺意の存在を窺わせるに足りる事情は存在したものということができる。

しかし、前認定のとおり、被告人が前記包丁を持ち出して被害者を追い掛けたところ、被害者がそのまま階段を降りていったため、被告人はひとまず安堵して自室に戻りかけたのであり、その時点において、当初殺意が存在したとしてもこれを失わせるに足りる契機があったものというべきである。これに加え、関係各証拠によれば、被告人は、これまで被害者との間で喧嘩となった際に、包丁を持ち出すことも数回に及んだが、それは、包丁で脅して被害者を自室等から追い出そうとしたものであって、被害者を殺そうとしたり傷つけようとする意図に出たものではなく、被害者は、被告人が包丁を持ち出すと怖がって逃げるのが通例であったことも認められるのであり、以上の事実に照らすと、被告人は前記包丁を持ち出した時点においては自暴自棄ともいうべき気持ちとなったものの、被害者が階段を降りていくのを見て我に帰り、自室に戻りかけたところ、塵取りとほうきを手にして構えた被害者から怒鳴られたことから、被害者を脅して追い払うために包丁を示しながら向かっていったが、予期に反して被害者が逃げようとせずに立ち向かってきたため、左肩からぶつかっていった旨の被告人の公判段階における供述には十分な合理性があるというべきである。

3  次に、心窩部に対する攻撃について考えるに、被告人の方から積極的に前記包丁を被害者の心窩部に向けて突き出したと認めるに足りる証拠はなく、かえって、前認定のとおり、被害者に取られないように被告人が強く支持していた右包丁の上に被害者が倒れ込んできたため生じたものと認めるべきところ、これにより生じた刺創の深さからすると、右包丁が相当強い力で被害者の心窩部に突き刺さったものと認められ、しかも、関係各証拠によれば、被告人を投げ倒した時点を除いては、被害者が被告人の上に倒れ込む機会はなかったものと認められる。したがって、心窩部の刺創は、被害者が被告人の右手首をつかんで投げ倒した直後に、被害者が仰向けに倒れた被告人の上に倒れ込み、その際生じたものと認めることができるのであり、このような瞬時の連続的動作の中で、被害者に右手首をつかまれながら仰向けに倒された被告人が、右手に強く握りしめた包丁の上に被害者が突然倒れ込んでくることは、事前に予測することはもちろん、その時点においても、これを認識し認容するような時間的な余裕はなかったものというべきである。

4  さらに、上胸部に対する攻撃について検討するに、受傷の部位、刺入口の方向、被告人の前記包丁の握り方、被告人と被害者との位置関係等に照らすと、前認定のとおり、被告人は、左手を床につき反動をつけて立ち上がろうとして、右包丁を持った右手を前方に突き出すなどした際、膝をついて被告人と向かい合っていた被害者の上胸部に右包丁が突き刺さったものであり、その際の被告人の姿勢は、壁面を伝って上体を起こし、一旦壁に後頭部と背中を付けて座った後、左手を床に付けて身体を支え、上体を左側に傾けて腰を浮かしながら立ち上がろうとしたものであること、被告人が上体を起こすまでに、被害者は、被告人の右手首を離すとともに、被告人の身体からも離れて、膝を付いたままほとんど動きを止めていたと認めることができる。

このような場合、被告人に殺意があるのであれば、上体を起こして座った際にほとんど動きの止まった被害者に向けて右包丁を突き出すのが最も自然な動作と思われ、しかも、このような安定した姿勢から確実かつ十分に力を込めて攻撃することが極めて容易であったにもかかわらず、右に認定したとおり、左手で支えて上体を左側に傾けつつ腰を浮かして立ち上がりながら被害者を突き刺すことは、殺意を抱く者の行為としては自然であることは否定し難い。

また、被害者の受傷部位に関する関係各証拠に、被告人の公判段階における供述を総合すると、被告人は、立ち上がった後、座り込んでいる被害者の顔面を殴打したことが認められるところ、殺意をもって包丁による身体の枢要部に対する攻撃を開始した者が、動きの止まった相手方に対して、刺突行為の直後にこれとは全く異質の殴打行為に及ぶこともまた不自然といわざるを得ない。

しかも、被告人が被害者にぶつかった後、被告人が新たに被害者に対する殺意を抱くに足りる契機が認められないことをも考慮すると、右認定の被告人の一連の動作は、被告人が公判段階において供述するとおり、被告人が反動をつけ立ち上がろうとして、思わず右手を前方に突き出すなどし、その際、右包丁が被害者に突き刺さったが、被告人はこれに気が付かないまま、立ち上がった直後に、腹立ち紛れに被害者の顔面を殴打したものと解するのが最も自然であり、被告人の公判段階における右供述は、信用性が高いものというべきである。

5  なお、被告人の捜査段階における供述調書には、刺突行為時点における殺意を認める趣旨の供述記載部分があるので、その信用性について検討するに、被告人の供述過程をみると、犯行態様について概括的記載しかない取調べの初期段階では、「『お前がやるなら俺もお前をぶっ殺してやる』と言って、息子の体を包丁で刺してしまいました。」(平成元年四月四日付け司法警察員面前調書《一〇丁のもの》)と極めて明快に確定的殺意を認めていたものが、犯行態様に関する供述内容が詳細になるに従い、もみ合う際には「『Aを包丁で刺してやろう』というような気持ちはあったかもしれません。」(同月一四日付け司法警察員面前調書)、「もみ合う最中に包丁の刃先が吉春の体に刺さっても仕方がないというような気持ちはありました。」、Aの上胸部を刺した「ときには、私は、Aをぶっ殺してやろうという気持ちでAを刺したと思います。」(同月二一日付け検察官面前調書)などと、曖昧ないし未必的な殺意を認める供述に変わっていったことが認められるが、右各供述は、前記1から4までに説示したところからして信用性に乏しいものと言わざるを得ない。これに加えて、関係各証拠によれば、取調べの初期の段階では、被告人の犯行状況に関する記憶が極めて曖昧であったが、その後、被告人が次第に喚起した記憶と被害者の受傷部位等を照合しながら、捜査官と被告人との間で犯行の態様について詰めていく作業が行われ、その犯行態様に即しつつ殺意に関する供述も変遷したことが認められるのであり、以上のような被告人の供述過程に鑑みると、被告人が犯行時における殺意を認めた供述記載部分は、被告人の公判段階における供述からも窺えるように、文化包丁を使用して被害者を死亡させたという結果の重大性、刺創が被害者の胸部から心臓にまで達するという被害者の刺傷の部位・程度に基づく捜査官からの追及に抗しきれなくなった被告人が、その都度誘導に応じて供述していったものとの疑いがあるのであって、本件犯行時における殺意を認めた捜査段階における被告人の供述記載部分は信用し難い。

三  以上のとおり、本件犯行時における被告人の殺意を認定するには合理的な疑いが残るというべきであるから、被告人の本件犯行は殺人罪には該当しない。しかし、前に判示したとおり、被害者の心窩部の刺創は、被告人が強く支持した前記文化包丁の上に被害者が倒れ込むことにより、また、上胸部の刺創は、被告人が右包丁を持った右手を前方に突き出したことにより、それぞれ生じたものであって、いずれも、被告人が自ら被害者にぶつかりもみ合ううちに生じさせたものであるから、被告人については、少なくとも暴行の故意を認めることができ、そのため、本件犯行については傷害致死罪に該当すると認定したものである。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法二〇五条一項に該当するので、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役二年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中九〇日を右刑に算入し、押収してある文化包丁一丁(平成元年押第五〇六号の1)は判示傷害致死の用に供した物で被告人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項を適用してこれを没収し、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

被告人の本件犯行は、前記のような犯行に至る経緯及び犯行直前にも被害者から一方的かつ執ような暴行を受けたという事情があるにしても、激情の赴くままに十分に殺傷能力のある鋭利な文化包丁を自ら持ち出し、しかも、一旦は我に帰って自室に向かいながら、被害者のささいな挑発に乗って素手の被害者に対し、右包丁を持ったままぶつかっていったもので、動機に酌むべき点が乏しく、右のような凶器を持ち出すこと自体極めて危険な行為であって、しかも、その結果いまだ二五歳と春秋に富む被害者を死に至らせるという重大な結果を招き、残された家族に与えた影響も大きいものがあり、被告人の刑事責任は重いというべきである。

しかしながら、犯行の態様はいずれも積極的な加害行為とまでは認められないこと、被害者がささいな動機から父親に対し執ように暴行を加えて本件犯行を誘発したこと、被害者が、少年時より不良化して少年院に収容されたり服役したものの、素行が改まらず、覚せい剤中毒に陥り、母親に再三暴力を振るい、無為徒食の生活を続けるなど、被告人の家庭を破壊するに近い状況にあったことが本件犯行の背景となっているものであるが、被告人なりに被害者の立ち直りに努めてきたこと、ここ二〇年余りは前科前歴もなく真面目に生活してきたこと、更生に協力してくれる家族がいることなど被告人に有利な事情もあるので、これらの諸事情を総合考慮して、主文掲記の刑に処するのを相当と思料する。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 豊田 健 裁判官 中谷雄二郎 裁判官 森 純子)

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